宝塚温泉 神々に選ばれた地 宝塚温泉物語 温泉の楽しみ方 宝塚ガイドマップ お天気カメラ 宝塚リンク集
宝塚温泉物語 宝塚温泉関係年表
第1章 宝塚温泉 その昔
第2章 宝塚温泉 その誕生
近代宝塚温泉の発見と黎明期1
近代宝塚温泉の発見と黎明期2
「新」温泉と「旧」温泉
第3章 少女歌劇と宝塚新温泉
少女歌劇の始まり
「すみれの花の咲く頃」
第4章 温泉と周辺の開発
温泉と暮らし
宝塚の発展と観光
第5章 新時代の宝塚温泉
宝塚と戦争
戦後の宝塚
宝塚温泉と文学
宝塚温泉関係年表
貞応2年 この年の記録『藤原光経集』に小林の湯が出てくる。『塩尾寺縁起』の中に、足利義晴の頃(1521〜1546)「悪瘡をわずらった老女が観音の慈悲により、武庫川の鳩ケ淵の川下の大柳の下からわき出す霊泉にて湯浴みをしたところ悪瘡が癒えたとの記録がある。
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▲塩尾寺 ▲武田尾温泉
寛永18年 武田尾直蔵が武田尾温泉を発見する。
寛政11年 『摂津名所図会』に伊孑志の山の下に「塩の湯」の記載あり。
明治17年3月 岡田竹四郎、小佐冶豊三郎らが「酸い水と鹹い水」が湧いているのを見つけ、温泉開場を計画する。
明治19年3月24日 岡田竹四郎、岡田五平次が温泉建設予定地付近の山林を買収。
明治19年3月26日 大阪衛生試験所から鉱泉試験結果が下付される。
明治20年3月 保生会社(兵庫・大阪の有志で結成)が伊孑志村302番字三昧(現湯本町9番29号)の土地を伊孑志村から永代借地する契約を締結。
また、タンサンラム子泉製造場を建設。
明治20年5月5日 温泉開業(旅館名は分銅屋、桝屋、弁天楼、小宝屋の4軒〉
明治22年9月 兵庫県知事内海忠勝が来宝。
明治23年1月 クリフォード・ウヰルキンソンタンサン鉱泉株式会社設立、創業開始。
明治25年 保生会社の経営が悪化し、解散。永代使用権を宝塚温泉場持主組合に譲渡。
明治30年3月2日 宝怏キ泉持主組合と地主総代間で土地売買等の契約締結。
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▲明治39年7月の宝塚温泉
明治30年9月29日 武庫川が大雨で氾濫し、温泉浴場が流失。
明治30年 阪鶴鉄道の開通(池田〜宝怺ヤ)により、温泉客が増加。この頃より鉱泉の瓶詰が始まる。
明治34年6月 温泉場を再建し開場、鉱泉550石、炭酸泉72石湧出。
明治35年
この年、宝来橋架設される。
明治36年 『宝怏キ泉案内』(加藤紫芳編)発刊によると、宿泊料は上等70銭、並等50銭、昼飯料25〜35銭、宴会は50銭以上。
入浴料は上等が5銭、並等が3銭、特別は20銭であった。
明治36年頃 春日育造が現在のホテル若水付近に春日病院を開設。のち宝恤a院と名称を変更。このころ、山本宇兵衛、寿鉱泉を発見する。
明治40年8月1日 阪鶴鉄道が国鉄福知山線と改称。この年の泉山楼(福井善兵衛の経営)の年間宿泊者数は2,226人。
明治40年頃 東塚一吉、長尾山東部に炭酸泉を開削し、花屋敷温泉を開業。
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▲明治40年秋の宝塚温泉
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明治41年2月16日 字武庫山768番地に宝塚郵便局設置。
明治42年3月 宝恪z泉合資会社が設立され、瓶詰開始。
明治43年3月10日 箕面有馬電気軌道、大阪〜宝怺ヤ、石橋〜箕面間営業開始。
明治43年3月17日
西宮銀行池田支店宝恟o張所が営業を開始。
明治43年11月6日 電信電話事務開始する。
明治43年12月1日 猪名川水力電気株式会社が宝怏キ泉場に電力を供給する。
明治44年
旅館旗亭を会わせ50余軒、その他の住宅200余戸を有する一大温泉場となる。
明治44年5月1日 宝恊V温泉が開場する。この年宝来橋が2代目の鋼鉄製に架け替えられる。
明治44年11月3日 小佐冶豊三郎『宝怏キ泉発見以来の顛末』をつくる。この年、寿鉱泉が泉質検査を受け温泉利用開始。有馬鉱泉合資会社設立。
また、二代目宝来橋が架けられる。
明治45年7月1日 宝恊泳場等の娯楽施設、
洋館を増設し、パラダイスと呼ぶ。
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▲毎日新聞広告「ドンブラコ」 ▲宝塚新温泉パラダイス正面入口及び全景
大正元年12月1日 宝恁x察署開設。
大正2年1月 宿屋料理屋飲食店同業組合を組織。宿泊料は特等1円50銭以上、1等1円50銭、2等1円20銭、3等1円、昼食代は1等75銭、2等60銭、3等50銭とする。この年、花火大会が開催。
大正3年 旅館数約30軒、料理業数軒、検番、置屋あり。芸者5〜60人を置く。
国鉄宝怏w付近には、各種商店、旅館のほか、米穀商、雑貨商、洋酒商、八百屋、菓子屋、小間物商等ができる。
この年、武田尾武庫川左岸と良元村小林の鉱泉がラジウムエマナチオン含有鉱泉と認定される。
大正3年4月1日
宝恟ュ女歌劇『ドンブラコ』を初公演。婚礼博覧会開催。
大正4年6月28日 温泉地区を良元村伊孑志から分離して宝恚謔新設する協定案が成立する。
大正5年7月 宝水会簡易水道より旅館等163戸に送水開始。
大正5年
温泉浴場の経営は株式会社宝怏キ泉(代表取締役・平塚嘉右衛門)の経営となり、納涼台を新設。従業員は支配人1人、出札2人、改札2人、気罐係1名、下足係9人、御客係2名、その他3人、計20名。この年、歌人与謝野晶子が宝怏キ泉を訪れ、「武庫川の夕」の歌を詠む。
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▲優待入浴券 ▲宝塚温泉全景(納涼台新築)
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大正7年5月 宝恟ュ女歌劇、帝国劇場で最初の東京公演を行う。
大正7年12月 宝怏ケ楽歌劇学校の設立が認可される。
大正8年1月 宝恟ュ女歌劇養成会を解散し、私立宝怏ケ楽歌劇学校となる。
大正9年6月
阪急電鉄宝怏キ泉事務所、新温泉の経営を担当する。
大正10年9月2日 阪急電鉄、西宮北口〜宝怺ヤの西宝線開通する。
大正11年4月30日 阪急電鉄西宝線複線電化工事完成。
大正12年1月 第一歌劇場より出火、新温泉は浴場を残し、焼失する。
大正12年3月 宝恍劇場竣工する。
大正12年7月 宝怏フ劇場に食堂・遊園地その他の施設が完成する。
大正13年7月 大劇場竣工、宝怎泣iパーク開園。この年、新温泉入場者100万人を突破する。宝怎Vンフォニー、コンサート開催。
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▲宝塚歌劇全景 ▲宝塚新温泉と大食堂
大正14年4月10日 宝恊V温泉に3階建て和食堂ができる。
この年から宝恟ュ女歌劇、年12回公演となる。
大正15年5月14日 平塚嘉右衛門と阪急電鉄の共同出資により資本金50万円の宝怎zテルを開業。
昭和元年9月 宝恁響楽協会、第1回演奏会を宝恟ャ劇場で開催する。
昭和2年3月
新温泉の経営が宝恁o営部によって行われることになる。
昭和2年9月
宝恟ュ女歌劇『モン・パリ』を上演する。
この年、小林一三、阪急電鉄取締役社長に就任する。
昭和3年 この年、阪急花屋敷駅と新花屋敷間にトロリーバスの運行始まる。
昭和3年11月10日 古塚正治設計の宝恆謌黹zテルが開業する。
昭和4年12月24日 株式会社宝怏館設立される。この年の末、平塚嘉右衛門、温泉住宅地、宝恍洲荘園の販売開始。
昭和5年8月3日 ダンスホール宝怏館が開館する。宝恟ュ女歌劇『パリゼット』を上演する。
昭和8年3月 宝恆蜍エ開通する。
昭和10年1月25日 宝恆蛹場焼失する。
昭和15年10月1日 宝恟ュ女歌劇が宝怏フ劇と改称する。
昭和19年6月1日 宝恊V温泉施設が海軍に接収される。
昭和19年8月25日 宝恆蛹場へ、海軍飛行予科練生約1,000名が駐とん、滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊発足する。
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昭和20年9月24日 宝恊V温泉へ連合軍進駐通告があり、9月25日進駐開始。
宝怎zテルが進駐軍将校宿舎として接収される。
昭和20年10月8日 阿久根台風により宝来橋が流失し、仮橋(三代目)が設置される。
昭和21年2月5日 宝恊V温泉、大劇場その他の施設が進駐軍の接収を解除される。
昭和22年4月29日
宝怎泣iパークと宝怏館が宝怎zテルに合併される。
昭和24年8月15・16日 宝怏ヤ火大会が復活する。
昭和24年10月
作家・三島由紀夫、旅館水明館に滞在し、八坂神社の秋祭り等を取材する。
昭和26年4月8月 宝恊V温泉開場40周年祝賀の催しが開かれる。
昭和29年4月1日 宝恍ャと良元村が合併し、宝恷s制施行される。宝怏フ劇団創立40周年祝賀会が開催される。
昭和30年4月7日 宝来橋(四代目)が架設される。
昭和30年5月21日 宝怎zテル営業を再開する。
昭和32年1月25日 小林一三永眠。2月、宝恷sが氏を市功労者として顕彰。
昭和35年4月1日 宝恊V大橋完成する。
昭和39年10月17日 宝怺マ光ダム完成する。
昭和44年9月27日 武庫川観光大噴水が完成する。
昭和53年10月1日 宝恆蜍エの架けかえ工事が完成する。
昭和61年3月25日 国から国際観光モデル地区に指定される。
昭和62年6月29日 観光100年記念式典が開催される。
平成元年3月 宝怎wルスセンターが廃止される。
平成6年11月13日 五代目宝来橋(マルタ・パンデザインのS字橋)が完成。
平成7年1月17日 阪神淡路大震災が起こる。
平成8年6月 新温泉泉源発掘竣工
平成12年3月 新観光ダム完成
平成13年8月 新観光噴水完成(武庫川宝怺マ光噴水)
平成14年1月30日 温泉のまち宝怩フ復興と新しい温泉文化発信を目指して『宝怏キ泉』開湯。
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宝塚市 編集・発行「宝塚温泉物語」より
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