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宝塚温泉物語 第2章 宝塚温泉 その誕生 「新」温泉と「旧」温泉
第1章 宝塚温泉 その昔
第2章 宝塚温泉 その誕生
近代宝塚温泉の発見と黎明期1
近代宝塚温泉の発見と黎明期2
「新」温泉と「旧」温泉
第3章 少女歌劇と宝塚新温泉
少女歌劇の始まり
「すみれの花の咲く頃」
第4章 温泉と周辺の開発
温泉と暮らし
宝塚の発展と観光
第5章 新時代の宝塚温泉
宝塚と戦争
戦後の宝塚
宝塚温泉と文学
宝塚温泉関係年表
近代的な「新」温泉と伝統的な「旧」温泉ー武庫川を挟む両温泉が競い合い発展ー
宝塚新温泉のできた明治44年以後、従来の宝塚温泉は宝塚旧温泉と呼ばれるようになりました。この新旧両温泉は、うまく住み分けができていたようで、昭和初期に紀行文作家として知られる北尾鐐之助が執筆した『宝塚新繁昌記』では「いったい、宝塚ほど、川の東西の景情の変わっているところはない。東岸の新温泉、歌劇場は、どこまでもモダン気分、大衆気分、日帰り気分。それに引きかえて、西岸の旧温泉は、入湯気分、遊蕩気分、逗留気分。」と記しています。
8.大正期の急速な発展
 また、急速に発展していく大正期の宝怩ノついて、摂津地方の有馬を中心とした温泉地を記した『摂北温泉誌』(大正4年発行)に当時の様子が記されています。
 両岸を結んだ初めての橋、宝来橋は2本の橋脚となっており、迎宝橋もすでにかかっていました。大正3年には旅館の数が約30軒、料理を専業とするものも数軒あり、検番、芸妓置屋もあって「脂粉匂ふ美人5、60人」もいるようになります。そして米穀商・雑貨商・洋酒商・八百屋・菓子屋・小間物商なども増えて、文字どおりの温泉街となっていきました。
 武庫川両岸の業者によって、「相互の意志の疎通を計り、協力ー致将来の改善発展を企画する」目的で、宿屋料理屋飲食店同業組合が組織されたのが、大正2年1月でした。
 温泉浴場は、大正6年から株式会社宝怏キ泉の経営となり、このころには武庫川左岸にも、新温泉・パラダイス・宝恟ュ女歌劇をとりまく新構想の街が創られ、成長する時期でした。そして向かい合う武庫川の両岸は共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争をはじめるということになりました。
 しかしその後両岸の資本の提携があり、地元の実業家平塚嘉右衛門と阪急電鉄は共同出資して、50万円の資本金で大正14年8月12日、株式会社宝怎zテルを設立、同15年5月14日宝恣口駅前において営業を開始しました。
 こうした発展を受けて、大正4年11月には行政区画として宝恍ャが誕生し、良元村の庁舎の位置も村の北部の発展に合わせ、逆瀬川に移りました。この庁舎は、宝恷s制施行後も市庁舎として使われ、昭和55年現庁舎が東洋町に建てられたのに伴い、取り壊されました。
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写真
▲新温泉場大理石浴室
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▲新温泉大浴室
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▲旧温泉全景(大正6年)
  宝塚市 編集・発行「宝塚温泉物語」より