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平塚嘉右衛門が温泉付き貸別荘と住宅の分譲を始めた時期は明確でありませんが、平塚土地経営所として初めて分譲したのは大正8年であったといいます。嘉右衛門は大正6年に小佐治米太郎所有の旧温泉全部を譲り受け、株式会社宝怏キ泉の代表取締役となっていました。この温泉を湯元より中洲まで引いて浴場を建設し、中洲温泉として営業を始めました。またこの付近に家屋を建て、中洲楽園温泉付貸別荘としました。
昭和4年末から5年初めには、良元村伊矛志の逆瀬川と支多々川(小逆瀬川)との間の土地を、温泉住宅地・宝恍洲荘園として売り出しました。株式会社宝怏館は、昭和4年12月24日に設立、翌5年8月3日にダンスホールを開館しました。
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〈平塚嘉右衛門〉
平塚嘉右衛門は、明治8年5月1日、兵庫県武庫郡良元村に生まれました。
氏は、明治30年代に柑橘類の栽培を始め、品種改良や果樹の研究にも熱意を傾けました。
大正時代になると宝怏キ泉の浴場を取得する一方、水道経営や河川改修などにも意欲を見せ、改修により生じた土地を宅地として開発しました。大正8年には平塚土地経営所を設立、本格的な宅地開発と土地の分譲に乗り出しました。彼の所有地は約50万坪を超えていたと言われています。また宝怎zテルや六甲山ホテルなどの経営にも参加しています。
ほかに、良元村の村長にも就任するなど、果樹園の経営から温泉、水道、ホテル、住宅経営、村政にと宝怩フ発展に幅広く足跡を残しています。昭和28年5月14日他界。
昭和34年宝恷s功労者に認定。 |
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西宮から良元村を南北に貫いて宝怩ノ至る西宝線が大正10年9月に開通し、大正11年以降は宝恣口駅が宝恊V・旧温泉への阪神間からの来客の玄関口となりました。それまでは西宮から小林まで乗合馬車が通っており、歌劇場への来客は小林駅の付近から歩いたといいます。その後、フォード丁型6人乗りを2台購入した乗合自動車が西宮東口・宝怺ヤを大正7年に操業を始めました。この区間の運賃は50銭でしたが、結構繁盛したといわれています。
宝恣口の駅前に大正15年5月14日、洋館五階建ての宝怎zテルが完成しました。これは、当時良元村開発の先頭に立っていた平塚嘉右衛門と阪急電鉄との共同出資により設立されました。同年8月7日このホテルの5階に宝恚芒y部という社交団体が生まれました。阪神急行電鉄株式会社の取締役上田寧が理事長となり、囲碁・将棋・撞球(ビリヤード)などの娯楽設備や野外ではテニスコート・弓道場などを利用でき、阪神間に在住する知名人の友好の場となりました。
大正15年、宝恚芒y部のなかに宝怎Sルフ倶楽部が生まれました。日本で16番目のゴルフクラブです。昭和3年宝怎Jントリー倶楽部と改称、同4年には女性の入会者もありました。
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