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箕有電鉄の乗客増加策としては新温泉だけでは魅力が少なく、博覧会がたびたび催され、その余興として観覧料金無料で少女歌劇を始めました。しかしこれを始めるにあたり、少女歌劇そのものの社会的意義を、当時箕有電鉄の専務取締役であった34歳の小林一三は『宝怏フ劇五十年史』のなかで、「洋楽趣味に立脚した、音楽と舞踊との連合したオペラを世に紹介して、社会の趣味的缺陥を補うと同時に、少年少女や青年男女に一種の情味ある趣味的資料を提供しようと考えたのが、そもそも歌劇団組織の主意である」と語っています。 |
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急速に人気を高めた少女歌劇に悲運が訪れます。
大正12年1月22日午前2時ごろ、第一歌劇場(新歌劇場)から出火し、大食堂・図書館・第二歌劇場(パラダイス劇場)・音楽学校新校舎を焼き、浴場だけを残して鎮火しました。この時遠くは箕面・芦屋・大庄(尼崎市)・塩瀬(西宮市)などから46台の消防ポンプが、近くは栄町消防組のガソリンポンプもかけつけ大いに活躍しました。
被災後、音楽学校は川西町(現在の川西市)の旧猪名川水力発電株式会社の事務所跡へ移転しましたが、跡地には約1,000人収容の宝恍劇場が応急的に建てられ、翌13年7月は、最新式舞台機構で観客4,000人収容の大劇場が竣工しました。
さらに3,700坪の屋外遊戯施設と2,560坪の動物園および映画館や食堂を含むルナパークが7月25日に竣工しました。そして昭和4年11月には、ルナパークと新温泉場との間に、花のみちを跨ぐ橋が架けられました。
武庫川左岸堤防と堤外地が美しくなるのは、大正13年にルナパークができてからで、石ころの多い堤外地を整地し、堤防も美化されて次第に花のみち(温泉通り)となっていきました。阪急宝怏wから花のみちに至る道路に沿って家が建ち、商店が並びましたが、まだみやげ物屋はその中に点々とあったにすぎません。大正末期の新温泉の街は、このような姿でした。
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昭和2年5月に一年余の欧米の劇場視察から帰った宝怏フ劇団の演出家岸田辰彌は、大正13年末に帰国していた高木和夫の作曲で、昭和2年9月『モン・パリ』を上演しました。これは日本における最初のレビューであり、その歌「うるわしの思い出、モン・パリ吾が巴里」は大衆に愛唱され、長期公演の最初の記録をつくりました。従来の演劇や舞踊の形式の殻を破った自由奔放な企画による、新しい調べと軽快なテンポ、登場人員210人の幕なし16場のモダニズムの大舞台の幕あきは、すなわちレビュー時代の幕あきでした。この年3月15日に始まった金融恐慌による暗い世相に、『モン・パリ』の歌声は、一つの救いとして拡がっていきました。そして『パリゼット』が登場します。
『パリゼット』はレビューとしても傑作であり、『モン・パリ』から3年遅れて昭和5年に上演されています。演出の白井鐵造は、『モン・パリ』上演の翌年秋アメリカ、フランスヘ留学し、昭和5年に帰国、その年の8月に宝恆蛹場で『パリゼット』を上演して絶賛をあびました。
『パリゼット』で忘れられないのは、今日、宝怏フ劇団の団歌のようになっており、宝怩ニいえばこの唄として知られる『すみれの花咲く頃』が、このレビューの主題歌として用いられたことです。また『おお宝怐xもこのときに歌われました。
宝恷sの市花がすみれ(昭和43年制定)であるのもうなずけます。
なお、宝恷sは平成12年から白井鐵造氏の故郷静岡県周智郡春野町と、すみれの花を通じて交流しています。 |
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▲モン・パリ(舞台写真) |
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▲仕掛花火番組(昭和5年) |
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