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小林一三が、文学を志した青春時代から壮年期の事業展開にいたる波乱に富んだ半生を語った自伝『逸翁自叙伝』の中では、新温泉開業当時の宝怩フ様子が次のように語られています。
「大衆娯楽施設の全部を宝怩ノ集中した。宝怩フ欠点は、平素流量の少ない、武庫川原の殺風景である。私達は新温泉を建設するとともに、今の西宮線(現在の阪急今津線)鉄橋あたりに、一段の堰堤を作って、上流旧温泉あたりまで一面の貯水域を築き、風景の美と舟遊びの便と、一挙両得、理想的観光地として計画したけれど、惜しむらくは、其の両岸が埋め立て地であるために、侵潤湧水、湿地として埋没するというので、中止せざるをえなかったが、もし、紅葉谷支流付近の岩盤から、上流をせき止めて貯水するものとせば、まさに、山峡の瀞何町かができ、生瀬鉄橋あたりまで、舟揖自在の弁を得、その両岸の地域は宝怦齠剪nとして新局面を開き、ここに 寿楼を中心として炭酸温泉を囲む湯の町が生まれるものと信じている。(中略)
翌45年7月1日には、新温泉に連絡するパラダイスの新館が落成した。パラダイスは最新式の水泳場を中心にした娯楽場である。この水泳場は大失敗であった。標準プールには到底及ばないが、飛び込みのできる深さと、子供たちの遊ぶ浅さと、斜めにできていたから、開場当初の間はいつも百人近い若い人たちを得たけれど、そのころは男女の同浴を許さないのみならず、水中における各種競技を二階から見物することすらも許されなかった。
しかしそれだから失敗したというのではない。屋内の水泳場は、日光の直射がないから僅かに5分間も泳ぐことのできないほど冷たい。外国の水泳場には水中に鉄管を入れ、そこに蒸気を送って適度に暖めていることを知らなかったのである。結局、泳者がないので閉鎖することにしたがその後始末に困った。ちょうどそのころ結婚博覧会だとか婦人博覧会、芝居博覧会、家庭博覧会等々、シーズンにはそれからそれと、何等かの客寄せを催しておったから、とりあえず水槽に板張りをして広間に利用しておったのである。この種の博覧会は宝怩ノおいて初めて企画され実行されたものである。」
こうした伏線のもと、宝恟ュ女歌劇は始まります。 |
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これまで見てきましたように、近代宝怩フ夜明けは温泉とともに訪れました。しかし、その宝怩ノ夢色の彩りを添え、大きく輝かせたのは、なんといっても宝恟ュ女歌劇です。
大正2年3月23日から60日間、宝怩ナは婦人博覧会が初めて開催され、翌3年4月1日には婚礼博覧会が始まり、その余興として宝恟ュ女歌劇の幕が開きました。そしてこの日は、近代的レクリエーション都市としての宝怩フ基礎が置かれた日でもありました。約9カ月間の指導と学習の結果を、少女達はパラダイス室内水浴場の脱衣場を改造した舞台で演じ、観客はプールの上に張った客席に座ぶとんを敷いて観覧しました。最初の公演曲目、歌劇『ドンブラコ』、喜歌劇『浮れ達磨』、ダンス『胡蝶の舞』は、かわいらしい14、5歳の少女がオーケストラに合わせて独唱や合唱をしながら踊るという珍しさで、予想外に歓迎され、5月30日には初公演の幕がおりました。
少女歌劇は、初めの8年間は年間4回の公演でしたが、大正11年からは年8回に、14年からは12回公演になりました。また新温泉入場者数は、大正3年には約24万人でしたが、以後次第に増加しました。明治の末に計画され大正初期に始まった新温泉の余興は、大正2年8月15日に初めておこなわれた宝恊開き全国花火大会(現在の宝怺マ光花火大会)などに景気づけられながら低迷期を乗り切り、昭和の初年には小林一三のいわゆる国民劇の新しい型が実現して、レビューの舞台に、すみれの花がその歌の旋律とともに咲きそろいました。会社の名前は大正7年に阪神急行電鉄株式会社と改められ、同10年9月2日には西宮北ロー宝怺ヤの西宝線が開通したこともあり、宝怩ヘ、娯楽設備がととのった阪神間の家族的レクリエーションの場として広く知られるようになりました。 |
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▲上演中の少女歌劇 |
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▲旧温泉街 |
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▲室内プール |
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▲新温泉パラダイス内水泳室 |
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▲宝塚少女歌劇第一回公演「ドンブラコ」 |
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▲箕有電鉄(阪急)宝塚駅 |
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▲少女歌劇演芸場 |
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