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宝塚温泉物語 第4章 温泉と周辺の開発 宝塚の発展と観光
第1章 宝塚温泉 その昔
第2章 宝塚温泉 その誕生
近代宝塚温泉の発見と黎明期1
近代宝塚温泉の発見と黎明期2
「新」温泉と「旧」温泉
第3章 少女歌劇と宝塚新温泉
少女歌劇の始まり
「すみれの花の咲く頃」
第4章 温泉と周辺の開発
温泉と暮らし
宝塚の発展と観光
第5章 新時代の宝塚温泉
宝塚と戦争
戦後の宝塚
宝塚温泉と文学
宝塚温泉関係年表
3.外園の経営
 宝怎激rューの黄金時代は、宝恊V温泉の拡張時代でした。昭和4年11月に新温泉と、道を隔てたルナパークとを連絡する陸橋が竣工し、温泉や歌劇観覧客が自由に動物園や遊園地に渡ることが、また6年11月にルナパークと植物園との連絡橋が完成し、熱帯植物園に入り大池でボート遊びができるようになりました。
 こうして植物園・子供遊園地・ルナパーク・動物園を合併し、新しく図書館や女子会館を建てた新温泉は3倍の規模にふくれあがり、料金も共通券が発売され、一家が子どもづれで一日を楽しく過ごせる一大レジャーセンターとなりました。
 武庫川では、上流の生瀬から下流はよく鮎が捕れ、急流に糸を垂れて大公望を決めこむ釣客や小舟を浮かべて網を打つ人もあって、シーズンともなると人々が集まりました。
 千歳橋・宝来橋や迎宝橋の上では浴衣がけの人々が、ある時は川面の月を眺め、また螢を追いました。夏の花のみちには夕方打水をして床几を出し、縁台将棋や碁、線香花火を楽しむ街の人々の姿もみられ、宝怩フ風物詩がここにありました。
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4.町の発展
 宝来橋付近から川に沿って阪急電鉄宝恣口駅に至る間の右岸、旧温泉地区には、温泉浴場と旅館・料理屋・芸妓置屋・女髪結業・人力車立場・宝恁x察署・ホテルおよび各種の商店が建ち並び、多数の芸妓や雇仲居がいました。左岸の新温泉地区には、国鉄福知山線と阪急電鉄の宝怏wがあり、その付近には、銀行や各種商店・みやげ物店・旅館・カフェーなどが軒を接するようになり近くの町や村の青年たちの憩いの場ともなりました。
 花のみちの両側には新温泉と少女歌劇・ルナパーク・活動写真館などが建ち並び、多数の浴客・遊覧客が往来していました。緑の袴を短くはいて、白足袋の上を僅かにのぞかせた宝怏ケ楽歌劇学校の生徒が、宝怏wから花のみちを通り、あるいはまた宝恣口から迎宝橋を渡り、学校や歌劇場へ向かう姿は宝恣ニ特の風物でした。武庫川両岸の市街地は、右岸は良元村、左岸は小浜村に属していましたが、2つの地区は総称して宝怩ニよばれ、一つの観光遊覧地となっていました。しかし、両地区を自動車で往復するには、下流は甲武橋(西宮市)まで、上流は生瀬橋まで遠く迂回しなければなりませんでした。自動車が通れる宝恆蜍エが開通したのは昭和8年2月でした。
5.増加する来宝者
 旧温泉の浴客数は大正14年ごろには年間16万人にすぎませんでしたが、昭和2年には28万6千人を数え、その後20万人台を推移し、11年には29万8千人となりました。旅館の宿泊者(宝恁x察署管内総数)は、昭和4年は3万2千人、8年に4万2千人、11年5万2千人、16年には5万8千人と増加していきました。芸妓置屋と芸妓数は昭和4年に13軒98人でしたが、5年には11軒80人に減少、6年の芸妓数は88人、13年には136人に増加しました。
 新温泉の入場者数は大正13年に100万人を突破。昭和17年にはそれまでの最高188万人に達しました。活動写真の年間観客数は、昭和4年に16万人、5年は22万人をピークに、その後はほぼ10万人前後にとどまりました。
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▲植物園東洋一大温室
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▲新温泉婦人化粧室
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▲新温泉道(花の道)
  宝塚市 編集・発行「宝塚温泉物語」より