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宝怏キ泉の老舗旅館分銅屋(現在は廃業)の創始者、小佐治豊三郎が記した明治44年(1911年)11月3日付の『宝怏キ泉発見以来の顛末』には、温泉発見の経緯を次のように記しています。
丹波国氷上郡田中村(現在の兵庫県氷上郡氷上町)に生まれ、後に大阪へ出て搾乳業と牛乳店を経営していた豊三郎のもとへ、明治17年(1884年)3月初め、川面村(現在の宝恷s川面)に住む岡田竹四郎が訪ねてきた。竹四郎の父親五平次は長尾山の中腹桜小場(現在の宝恷s桜ガ丘)に山田の開発を始めたが、資金不足のため途中で中止せざるを得なくなっていた。せっかく開墾した山田もこのままではもとの荒野になってしまうので、父の遺志を継いでやり遂げたいと思案した竹四郎が、人づてに豊三郎が牛のことにくわしいと聞き及び、牛馬の力で開墾できないものかと相談に来たのである。
宝怩ノ住む竹四郎の親戚の田村善作宅へ行っての帰り道、竹四郎から「酸い水と鹹い水」が湧く場所があると教えられ、汲んで帰った。飲んでみるとおいしかったので、知り合いの医師に贈ったところ、飲料・浴用ともに適する最上の鉱泉であると絶賛された。この水から山塩を採取する計画をひそかに立てていたが、このとき温泉場を開設しようと決意し、田村善作や岡田竹四郎に相談したところ、二人も大いに賛同してくれた。
ある日、三人は温泉場の設備や営業状態を調べるため有馬温泉を訪れ、地元の人に「有馬では、宿屋にみな『坊』の名がつけてあるのはなぜか」と尋ねたところ、「この地は昔から仏様に因縁が深いので」ということであった。それではわれわれの温泉場にも縁起のよい名をつけようと、命名を田村善作に一任し、『宝怏キ泉』と決まったのである。
土地の開拓や家屋の建築に着手する一方、鉱泉の試験を大阪衛生試験所へ依頼し、明治19年3月26日その結果が示され、翌20年5月5日開業に至った。 |
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宝怏キ泉は、兵庫・大阪の有志(岡田竹四郎・岡田五兵衛・小佐治豊三郎らもそのうちの一人であったと思われます)が創立した会社(保生会社)が、鉱泉湧出所を地元から借地して経営することになり、明治20年(1887年)3月、伊孑志村302番字三昧(現在の湯本町9番29号)あたりの伊孑志村共有山林7畝15歩の永代借地契約を結びました。温泉場は崖の下にあり、多量の土砂を投入して埋立て、浴場を建てたといいます。
温泉会社は、昭和14年(1939年)に発行された『宝怏キ泉の今昔』によれば、ウヰルキンソンタンサンで有名なウヰルキンソンは、明治22年温泉会社からラムネ部を譲り受け、温泉場の近くを流れる塩谷川沿いの紅葉谷に工場を設けて事業を開始。同25年にタンサンホテルと名づけた欧風建築を建て、宝怩フ発展に寄与したとあります。
開湯当時は、まだ鉄道はなく、入浴客の急速な増加を望むことができなかったため、明治25年に会社を解散して、温泉場を閉鎖することになりました。閉鎖された温泉は、宝塚温泉場持主組合によって復活しますが、明治30年9月29日の大雨で武庫川が氾濫し、浴場は流失してしまいました。ホテル若水にある温泉再築の碑によりますと、浴室に揚げてあった扁額は、泉州浜寺(大阪府堺市)まで漂流していったとのことです。
こうした災害にも負けず、宝塚温泉は、明治32年春新築にかかり、その年の6月に落成、開場しました。 |
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阪鶴鉄道は、大阪から舞鶴を結ぶ幹線として計画され、明治24年7月、その前身である川辺馬車鉄道により尼崎〜長洲間が開業。その後、摂津鉄道を経て阪鶴鉄道に経営が移り、日本海の舞鶴へと毎年のように路線は延伸。明治30年には宝怏wができ、32年1月に三田まで、同年7月に三田〜福知山南口が開業し、全線が開通。明治40年10月に国有化され、福知山線となりました。
同時にこの阪鶴鉄道は、同鉄道の重役(相談役の一人であった小林一三を含む)が辞職して箕面有馬電気軌道、後の阪急電鉄を作る母体となりました。これが、小林一三の宝怩ノ関わるきっかけでありました。 |
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阪鶴鉄道が明治30年12月に宝怩ワで開通。宝怏キ泉は大阪からきわめて便利になり、浴客が増加、それにつれて旅館・料亭の数は急速に増えました。
明治36年7月に発行された加藤紫芳編の『宝怏キ泉案内』によれば、武庫川にかかる宝来橋は、「宝怩ノ住む有志の寄付で造られ、橋杭が一本ずつ橋の中央に並列して橋桁を支えた」珍しい構造でした。
武庫川左岸から橋を渡った所すぐ下流側が温泉浴場(現在の市立宝怏キ泉の下流)で、温泉地はこのころ急速に市街地として発展。炭酸煎餅やようかん、湯染などを売る店も並び、鉱泉の瓶詰所などがありました。 |
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