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宝塚温泉物語 第5章 新時代の宝塚温泉 戦後の宝塚
第1章 宝塚温泉 その昔
第2章 宝塚温泉 その誕生
近代宝塚温泉の発見と黎明期1
近代宝塚温泉の発見と黎明期2
「新」温泉と「旧」温泉
第3章 少女歌劇と宝塚新温泉
少女歌劇の始まり
「すみれの花の咲く頃」
第4章 温泉と周辺の開発
温泉と暮らし
宝塚の発展と観光
第5章 新時代の宝塚温泉
宝塚と戦争
戦後の宝塚
宝塚温泉と文学
宝塚温泉関係年表
3.歌劇第二の隆盛期へ
 昭和26年の夏、白井鐡造作のグランド・レビュー『虞美人』は、戦後はじめて3カ月のロングランを記録しました。これを祝うかのように宝怏ヤ火大会も復活しました。東京では東京宝怏フ劇場が接収解除となった30年4月に、『虞美人』が上演され、超傑作と絶賛されました。数々の傑作が続きましたが、高木史朗作演出の『ボンジュール・パリ』が昭和30年度のテアトロン賞を受けたのにはじまり、32年にはレインボー賞、33、34年には芸術祭大衆芸能部門奨励賞を、翌35年には高木史朗作演出の『華麗なる千拍子』が大衆芸能部門で芸術祭賞を受け、また36年には宝恚ス土芸能研究会構成・渡辺武雄演出『火の鳥』が芸術祭賞を引き続き受け、連続して文部大臣賞を受賞するなど、第二期黄金時代が到来しました。
4.歌劇40周年と海外公演
 昭和29年4月1日宝恷sが誕生しました。この日宝怏フ劇団は創立40周年を迎え、盛大な祝賀会を催しました。この年のベニス映画祭に八千草薫と寿美花代が派遣され,引き続き東宝映画と伊リッツ社との合同映画『蝶々夫人』に出演。またローマで各国公使を招待し公演しました。30、31、32年には、ハワイで公演しました。34年には出演者42人という最大の規模でタカラヅカ・ダンス・シアターを構成して、カナダ・アメリカの31都市で公演し好評を博したのです。
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5.小林一三の死
 宝怩ノ電車を走らせ、宝怎tァミリーランドや宝怏フ劇を育て、また数々の会社を経営し、昭和15年には第二次近衛内閣の商工大臣を、20年には幣原内閣の国務大臣戦災復興院総裁をつとめた小林一三は、昭和32年1月25日夜84歳の生涯を閉じました。
 同年1月31日宝恆蛹場の舞台に音楽学校生徒310人が並び、宝恁響楽団がショパンの『葬送行進曲』を奏して故人にふさわしい宝怏ケ楽学校葬がおこなわれました。また宝恷sは、昭和32年2月小林一三翁を市功労者として顕彰しました。昭和35年9月元の宝恤カ芸図書館を宝怏フ劇記念館とし、写真と資料で宝怏フ劇の歴史を展示し、そのなかに小林一三記念室が設けられました。
6.宝塚温泉の最盛期
 宝怏キ泉は、戦後手軽な温泉場として多くの観光客を集めました。
 昭和41年には年間71万人が宿泊。最盛期の昭和45年の大阪万国博覧会の年には約133万人が宿泊しました。
 しかし、その後温泉街はマンション開発が進み、住宅地へと変貌していきました。また交通の発達、さらには阪神・淡路大震災も加わり、温泉入浴者や旅館数が減少、平成12年には入浴者数22万人、旅館ホテルも6軒にまで減りました。
 そこで宝恷sは、宝怏キ泉の良さを広く再認識していただき、湯の町宝怩復活させ、さらには宝怩フ温泉文化を発信しようと平成5年度から温泉利用施設の建設事業に取りかかりました。震災で一時中断しましたが、平成14年1月に待望の市立宝怏キ泉が誕生したのです。
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写真
▲火の鳥
  宝塚市 編集・発行「宝塚温泉物語」より