 |
宝温泉がふたたび発展し隆盛となるのは明治38年ごろからです。阪鶴鉄道は明治40年8月1日国有鉄道福知山線となりました。
明治23年、当時は西宮警察署の管轄下にあり、温泉街の繁栄に伴い宝と小林に駐在所が設けられていました。やがて大正元年12月宝警察署が新設され、温泉街の南の端、武庫川に臨み県道に面した要所に庁舎が完成したのは、大正2年5月のことでした。
すでに明治30年前後から始められていたと思われる鉱泉の瓶詰は、42年3月温泉場持主組合より独立して、萩原吉右衛門を代表とする宝鉱泉合資会社の手で行われていました。明治38年川辺郡多田村にシー・ヒラノ・ミネラルウォーター・カンパニー源泉所が、40年2月、同じ村に帝国鉱泉株式会社平野工場ができています。いわゆる「平野水」の会社です。 |
 |
ページの先頭 |
 |
現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道株式会社が設立され、電車が走りだしたのは明治43年3月10日でした。
小林一三はその著『宝漫筆』のなかで、当時の宝の様子を次のように語っています。
「その後、阪鶴鉄道の開通とともに宝温泉は、急速な発展を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治43年3月10日、箕面有馬電気軌道株式会社の電車が開通した当時は、武庫川東岸(左岸)すなわち現在の宝新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林の続く河原に過ぎなかった。
箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加を図るためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるよりほかに方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することは難しいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむを得ず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのは、箕面と宝の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美を背景にして新しい形式の動物園が設置され、宝には武庫川東岸(左岸)の埋め立て地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、及び瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治44年5月1日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。」
小佐治豊三郎は、明治44年の状況を「旅館旗亭を合せ50余軒、其他の人家200余戸を有し、尚日に月に発展の状況を呈する一大温泉場となるに至れり」と記しています。 |
 |
ページの先頭 |
 |
新温泉は、明治44年5月1日大理石造りの大浴場を中心とする家族的娯楽場として開場しました。翌45年には、室内水浴場を中心とする娯楽設備と近代的構造の洋館を増設し、パラダイスとよびました。しかし室内水浴場はスチームの設備がなくて冷たく、また当時の世情は男女共泳や女子の観客の入場を許さなかったこともあって、経営は失敗しました。そこでこの水浴場の転用計画が練られ、プールの上に板を張り、その上で温泉客のための余興として幻燈を映写してみせていました。
当時、大阪の三越に少年音楽隊があり、これが好評であったことにヒントを得て宝に少女の音楽隊をつくり、板張りにした水浴場で余興として公演しようという案が実現することになりました。最初は宝唱歌隊ということで大正2年7月15日、19歳を年長に12歳以上の第一期生16人を採用しました。
指導者は以前から歌劇に抱負をもっていて、この唱歌隊の余興を歌劇にまで発展させようと、第二期生として4人の少女が加わって後、大正2年12月宝少女歌劇養成会と改称されました。
|
 |
ページの先頭 |
|
 |
| ▲箕面電軌開業案内 |
 |
| ▲新花屋敷温泉 |
 |
| ▲新花屋敷温泉全景 |
 |
| ▲宝塚新温泉 |
 |
| ▲宝塚温泉開業広告 |
 |
| ▲新温泉納涼室 |
 |
| ▲新温泉脱衣場 |
 |
|